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門 灯

海峡paper版アーカイブ1997年

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神戸のマンションに住むようになって、5年目になる。

マンションの入り口は道路から少し下る階段があって(将来年を取り足元がふらつくと転げる可能性大)、自動扉、郵便受けのスペースの先に更に自動ロックドアがあり、ようやくエレベーターに向かう通路になる。

通路の左手はいつもいない管理人室がお飾りであり、右手には椅子1つないロビーが、冬なら寒々と夏なら涼し気に見えている。

マンションの表には、門灯に当る赤っぽいオレンジ色の光を放つ電燈なるものが取り付けてあり、マンションのある通りを南側から登っていくと夕方には、もう自動的に作動して帰宅する私を迎えてくれるのが見える。

慣れない間は勿体ないと思っていたし、エレベーターの前にあるまばゆい電気スタンドは、スイッチをひねってわざと消していた事もある。

不況下の日本であるけれど、今の所、都市部では電気をケチる習慣はなく、いつも映画を見に行くホール等、昼間で大きな窓から十分な採光があるにも関わらず、電燈がガンガン画一的につけられている。これには「勿体ない」の感覚を持つのが普通の人間だろう。

最近、入会して5年目になる文集で、ある方が「門灯」に対する思いを文になさった。

門灯をつけない家とか、門灯の電気代は惜しむのに誰も見ないつけっぱなしのテレビの電気代は平気だとか、門灯に表れる人々の心模様を味わい深げに語った文章だった。

ここ10年、素人である庶民が書く文にかなりの量触れて来たが、門灯をテーマとした文は初めてだった。暮らしや生活を書くとなると自分自身の生活の内容をことごとく報告したり、家族の動静の報告で他人の心をうんざりさせる文を書く人が多い中で、久し振りに中身のある連鎖反応が起きる文を読めた。

子供の頃、近所のお家に遊びに行って、玄関を辞するや否や、門に辿り着く前に

「パシッ」と門灯を消された事がある。

 ーおや、私がお邪魔していたのがご迷惑だったのかしら?ーーと思った。

 多分、その人はついでだから早く消しておこうとしただけかも知れない。

留学していたトロントでは、下宿住まいのため門灯に関して2つの強烈な思い出がある。

最初に下宿した中国人の家庭では、とても明るい門灯があった。

しかし夜遅く帰る私のためにつけると電気代がかさむので主人は、

わざわざ私のために小さな門灯を付けて下さった。

そしてその消し方をていねいに教えて下さった。

ところが2度離婚した、わがままの極みみたいな女性の下宿では

門灯は必ず消されていた。勿論わざとである。

ある日、自分の娘がパーティで夜遅く帰って来るから門灯は消さないようにと言った。

門灯のスイッチの場所を教えてくれてもいないのに。

この家では、1度だけだが、犬の食器でサラダを出された事がある。

犬は家族の一員だという扱いで、自動食器洗機にはこのプードルの食器も入れて洗うし、夜遅く食事している私の股に顔を入れてジィッとしているのが可愛い犬だったので、文句もいわずに我慢して食べたけれど、このbitch(いじわるな女)という言葉がぴったりの女性が、どんなひどい心の持ち主であったかは、記憶に残っている。

彼女は世の中の極く普通の人なのだ。

「門灯」とはその家に住む人の心を代表するものと言えるのかも知れない。

私の心の門灯はどこにあるのだろう。

いつ、スイッチオンで、いつオフにすればいいのだろう。

好きな歌の1つに、イギリスのメロディに大好きな詩がついている

灯台守りの唄」がある。

  こおれる月かげ 空にさえて

  ま冬のあら波 よする小島(おじま)

  思えよ灯台、守る人の

  とおときやさしき、愛の心

  はげしき雨風(あめかぜ) 北野海に

  山なすあら波 たけりくるう

  その夜(よ)も灯台 守る人の

  とうときまことよ 海を照らす

人の心は小さな事に表れる事が多い。