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宮崎県の戦争遺跡7〜陸軍都城飛行場_東飛行場編1

今回から、陸軍陸軍都城飛行場の東飛行場についてです。

東飛行場は以下の地図の通り宮崎自動車道都城インターとJR都城駅の南北に挟まれて、かつ、道の駅都城の東側の位置に所在しておりました。

現在は工業団地となっておるこの一帯、東飛行場について標柱や石碑が複数個所あるという情報を耳にしていたものの、詳しい場所の情報は乏しく、現地に行っても案内看板がある訳でもなく、あちこち放浪して探したあげく見つからず、その後二〜三度の訪問でようやく総て見つけたという、苦労した苦い思い出のある地です。

まずは、東飛行場が生まれた経緯、歴史をご紹介致します。

昭和15年5月 軍の委託を受けて宮崎県が用地買収開始。

       並行して埋め立て工事を行う。

昭和17年   用地買収完了。

本格的な整地ができたのは一部のみ。

昭和18年   川崎航空機が都城に飛行機工場を建設することになり、それに伴い、この工場で生産される大型機の試験飛行用の飛行場が必要となり、本格的に東飛行場を建設することになる

3月5日 地鎮祭

昭和19年   秋頃おおむね完成。

海軍飛行場として開場

10月5日 飛燕の試験飛行

この頃から第六航空軍所属の特攻隊「振武隊」の出撃拠点となる。

昭和20年  3月 陸軍専用飛行場となる

      4月6日 特攻機初出撃 

以降7月1日まで出撃続く

歴史を見ると、軍の委託を受けた県→工場→海軍→陸軍と入れ替わりが激しいですが、当時、軍が使用していた飛行場には、元々民間の飛行場や航空学校系の飛行場等だった施設がどんどん軍用になっていったんですよ。

例えば、羽田空港や大阪の伊丹空港は戦前は今と同じく民間航空機の飛行場として開場しましたが、大戦末期には軍用飛行場になったんです。

そして戦後は米軍に接収され米軍飛行場、後に返還され今に至ります。

米軍の厚木基地飛行場や岩国基地飛行場は未だに返還されていませんが・・・。

さて、かつて所在した東飛行場跡をウロウロしていた所、旭ヶ丘運動公園周辺の住宅街の中にある「三原地区コミュニティセンター」に特攻隊の記念碑を見つけました。

木製の杭には各面にそれぞれ、以下の文句が記されております。

「戦後五十周年関連史跡

特別攻撃隊基地跡」

特別攻撃隊基地は都城東飛行場の名で昭和十九年に建設された。

沖縄特攻の出撃基地として六十九名の若者が出撃して行った。

三股町教育委員会 平成九年三月 」

隣の石碑は終戦翌年に東飛行場跡に入植した住民達が、それを記念して昭和34年に建立した記念碑です。

ここはかつて、滑走路から誘導路で繋がっていた三股町蓼池地区(現在の旭ヶ丘運動公園周辺)に、掩体壕の他に飛行場指揮所や多数の三角兵舎が設置されていました。

当時の誘導路は、三原交差点から蓼池郵便局へ抜ける車道として現在も利用されています。

そして、記念碑が設置されている三原地区コミュニティセンター周辺もかつては飛行場勤務者の兵舎としてこの近辺に集中していたそうです。

飛行場の遺構自体は既にここには残されておりませんが、旭ヶ丘運動公園の南を流れる沖水川の少し上流の梶山(梶山小近く)の川沿いに当時の軍需物資格納庫が残されております。(画像2)

また旭ヶ丘運動公園すぐ東側の勝岡小学校から更に東へ100m程の竹林の中には、かつて海軍通信所跡があります。(画像3)

建物は終戦直後に破壊されましたが、コンクリートの一部が残っています。(どこの部分かは分かりませんが)

他にも勝岡小学校付近には、海軍の兵舎もありました。

まだまだ東飛行場の面影を探す旅は続きます・・・。

訪問時期

2015年8月